2024年
11月
26日
火
遅くなりましたが、11月5〜6日の報恩講法要にお参りをいただき有難うございました。役員、婦人会本部の皆さまにはご協力をいただき御礼申し上げます。
親鸞聖人のご命日をご縁として、様々なご恩にお礼を申し上げる報恩講法要が無事にお勤め出来ましたことに深く感謝申し上げます。
タイトルの「あらゆる未来の花は今日の種の中にある」は、インドのことわざです。
これが2021年11月の築地本願寺参拝カードに使用されました。
そこには次のような言葉が添えられておりましたのでご紹介いたします。
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秋になり花びらは散っていきます。一度花の形がなくなりますが、また次の年には種から芽が出て、新しい花を咲かせます。仏教にも「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ」(金子大栄)という言葉があります。親鸞聖人をはじめ、仏さまの教えを喜んだ先人たちは、形はなくとも、残された私たちを仏さまの教えへと導いてくださいます。
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私たちがお念仏を申す姿、手を合わせる姿、お念仏を喜ぶ姿も次の世代へと繋がってゆくのだと思います。
2024年
10月
26日
土
既に、文書でご案内の通り、来月5〜6日で報恩講法要をお勤め致します。
コロナ期間中は、縮小した形式でお勤めしておりましたので、2日間お勤めするのは5年ぶりとなります。
浄土真宗にって、報恩講はもっとも大切な仏事です。親鸞聖人のご命日をご縁として、私たちを救ってくださる仏さま(阿弥陀如来)、そして親鸞聖人をはじめ先だっていかれた方々のお導きによって、この私が念仏のみ教えに出逢い、生きる依りどころをいただいているご恩にお礼を申しあげる法要です。
是非、皆さま、お誘い合ってお参りください。
今月も、本願寺新報(10月20日号)よりインスタ倶楽部のお話を以下にご紹介いたします。
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石は水に沈む性質を持っています。ですが、小舟にでも載せられると沈むことなく、舟の着くところまで運ばれてゆきます。この時、石が水に浮く性質へと変わったわけではありません。石自体はそのままに、置かれている場所が舟の上となり、水に浮くように転ぜられたといえるでしょう。
(中略)
阿弥陀さまは、私たちに対して、煩悩を捨てよ、清らかな人格となって悟りをひらきなさい、とはおっしゃいません。本質的に清らかになり得ない私を見抜いたうえで、「南無阿弥陀仏」といういわば舟に乗せてそのまま救うとおっしゃいます。仏教の教えに出遇えたからといって、たちどころに理想的な自分自身に変身はできないでしょう。しかし、沈まぬ阿弥陀さまの舟に乗せられるというこは大いなる「転」です。そんなご恩を、少しずつ気づけるような日々といたしたく思います。
本願寺派総合研究所・副所長 高田未明
2024年
9月
24日
火
今年のお彼岸は、本堂の上がり口にも掲示板を置きました。
「わたしがねているときでも動いてくれる心ぞう」
詩人であり書家である相田みつをさんの言葉です。
私は私の心臓ひとつさえも思い通りには出来ません。夜中に、ふと心臓が止まってしまっても、自分ではどうすることも出来ません。
よくよく生かされているこの私だと言わざるを得ません。9月20日の本願寺新報には以下のように書かれておりました。
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食べ物や住まい、人間関係、社会制度、いまこの私には、与えられ、為され、恵まれたことがたくさんあります。むしろ、私を成り立たせているのは、すべて私以外から恵まれたものだというべきでしょうか。
そうすると当たり前と思っている日常の裏側には、見えにくくて意識しづらくとも、実は広大な「恩」が存在しているというべきでしょう。
ところで、日本人の多くは「恩返し」の考え方が強くそなわっているといえます。それ自体は否定されるべきものではありませんが、場合によっては恩返しをしたからもう恩義を感じる必要はないと、たまっていたツケを支払ったかのような考え方に陥りかねません。しかし本来的には、恩とは決して返しきれるようなものではないはずです。そして阿弥陀さまのお救いも、私が返しきれるようなご恩ではありません。
自分を支えてくれている家族のやさしさにふれ、この世で直接会えなくなったあのひとから受けたご恩を思い出します。仏さまの教えと出逢わせてくれたご恩でした。お彼岸の時期に恩ということをあらためて味わわせていただきます。 本願寺派総合研究所 副所長 高田未明
2024年
8月
15日
木
お盆前の11日、本堂内陣仏具のおみがきをしました。綺麗になった仏具で墓参のご門徒さんをお迎え出来て、誠に有難いことです。
ご協力をいただきました役員の皆さまに感謝申し上げます。
今日は終戦記念日です。日本では79年の間、戦争はありませんが、今も世界各地で争いが絶えません。それは哀しい現実であり、決して他人事でもありません。
歎異抄13章にある親鸞聖人と唯円房とのお話を思い出しました。現代訳は次の通りです。
「(略)また、あるとき聖人が「唯円房よ、あなたは私の言うことを信じ受け入れるか」とおおせられたので、「もちろんです」と申しあげた。そうしたところ、「それでは、私が言うことに背かないか」と、さらに重ねて念を押されたので、誓って背きませんと申しあげた。すると聖人は、「それではまず、ひとを千人殺してみなさい。そうすれば、浄土への往生は決定するであろう」とおおせなった。それに対して「聖人のおおせではありますけれど、たとえ、一人たりとも私のようなものには殺せそうも思えません」と答えたところ、聖人は「それではどうして私が言うことに背かないと言ったのですか」とおおせられて「これによって、わかるでしょう。すべてのことが、自分の思うままになるのであれば、浄土往生のために、ひとを千人殺せと言われたならば、ただちにそうできるはずである。しかし、一人たりとも殺してしまうような宿業の深い拝啓がないから、殺せないのである。私のこころが優しく善良であるから、殺さないのではない。また殺すまいと思っていても、百人はおろか千人殺してしまうこともあるのだ」とおおせになった。」
聖人のお言葉に「さるべ業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」に通じるお話です。
この点については、以下に、真宗大谷派三十別院のHPより、以下に引用すます。
自分の頭で「こうしよう」「ああしよう」とどれだけ計画したところで、何かの原因と条件が揃った時には、自分の意思を超えて、人は何をするか分からない。
ある日、謂われもなくなく殺される日があるかも知れず、ある日、人は謂われもなく人を殺す日が来るかも知れない。
「自分だけはそんな目に遭うはずがない」だとか「自分だけはそんなことをするはずがない」と考えることは、「自分」が「自分」と約束しているだけの、根拠のないことなのでしょう。
私たちは、たまたま生まれ育った境遇や現在の生活や人間関係が犯罪を促すようなものではないので、今は重罪を犯すことが思いもよらないだけなのです。もし、考えもおよばないような情況に追いつめられたり、犯罪を引き起こすような条件が周りにそろってしまったならば、自分も何をしでかすか分からない。このような罪業性をもつ我が身のあり方は、正しく「いずれの行もおよびがたき身」でしょう。そして、このような私だからこそ、救わずにおれないという弥陀の大悲に、頭が下がるということがあるように思います。
2024年
7月
22日
月
梅雨明けした途端に連日の酷暑となりました。
新型コロナの第11派という報道もありますし、熱中症とあわせて、くれぐれもお気を付けてお過ごしください。
子どもの頃、夏の夕立は、さっと通り過ぎて気温を下げてくれるものでしたが、最近は酷い雷雨となります。近年は、梅雨の降り方も以前のそれとは変化してきたように感じられます。
降雨を機縁としたお話が、7月20日発行の本願寺新報にございましたので、ご紹介いたします。
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仏教はインドのお釈迦さまの説法から始まっています。その内容はお釈迦さま個人のお考えというよりも、どのような時代のどのような人の上にも当てはまる法則が説き示されているというべきでしょう。
身近では、種がまかれて(因)、水や気温などの諸条件(縁)がととのった末に、花開く(果)という因縁果の道理が当てはまります。その道理にわが身を引き当てて考えれば、自分自身も一人で存在することはできません。
人々との関係や社会、地球環境、なにより多くの命を食べ物としていただいて生かされていることを知るに至ります。こうしてお釈迦さまの教えの内容はあらゆるものに区別なくあてはまります。
経典には、仏さまの教えが「法雨」として説かれています。雨は降り落ちる先を選り好みしません。また「澍ぐ(そそぐ)」には、雨が降って万物をうるおすという意味があります。私たちは、いまこの瞬間もひとしく、法としての仏さまのはたらきをいただいています。
雨降りの日は、あらためて仏さまの教えを聞く機縁とさせていただきます。
・・・・・・・・・・・・・本願寺派総合研究所 副所長 高田未明・・・・・・・・・・・・・・
2024年
6月
18日
火
今年も住職が世話をする蓮の花が咲くころになりました。
今月は、大谷本廟の月々のことば(2023.7月)をご紹介します。
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金子みすゞさんの作品に「蓮と鶏」という詩があります。
「泥の中から 蓮が咲く
それをするのは 蓮じゃない
卵の中から 鶏が出る
それをするのは 鶏じゃない
それに私が 気がついた
それも私の せいじゃない(出典 金子みすゞ「蓮と鶏」)」
あたりまえだと思っていることが、本当はあたりまえではなく、実はすごいことなんだと気づかせてくださる、素敵な詩です。
仏教では、私たちが「南無阿弥陀仏」のお念仏を称える姿を、泥の中から白い蓮の華が咲く様子に例えられます。泥のようにドロドロとした煩悩を抱える私たちに、手を合わせお念仏申すという仏道を歩む姿が生まれている。その姿をお釈迦さまはし白い蓮華の華「分陀利華」だと喜ばれたと説かれています。
しかし、それは金子みすゞさんが「それをするのは蓮じゃない」と言われたように、私たちが頑張って仏道を歩もうとした結果生まれたものではありません。そうせしめるような様々なご縁やはたらきがあって初めて私の手が合わさったのではないでしょうか。
そのはたらきに気づかせていただくのは、例えば先立って命終えて行かれた大切な方とのお別れかもしれません。もし大切な方との別れがなければ、煩悩に振り回される私は手を合わすことも、お念仏申す事も、仏教に出逢うこともなかったかもしれない。そして大切な方との別れに導かれ、阿弥陀如来の「すべての人を、命終えた時にわが国浄土に生まれさせ、仏にしたい。だからどうか私の名を呼んでほしい、南無阿弥陀仏と称えてほしい」という願いが私にはたらき、泥の中から蓮の華が咲くように、私の上に手を合わせ、お念仏を称える姿が育てられてきたのです。
仏さまの前や、お墓参りの時に当たり前のように手を合わせ念仏称える私ですが、それは決して当たり前のことではなく、多くのお育てがあって初めて生まれた尊い営みなんだと、泥の中から咲く蓮の華の姿に思わせていただきます。
2024年
5月
26日
日
昨日、永代経法要をお勤めいたしました。まだ5月だと言うのに暑い日でしたが、ご参拝をいただき、誠に有難うございました。
総代さま、役員の皆さまには、法要開始の一時間前からお集まりいただき、幕張りや仏旗掲揚ほか色々とお手伝いをいただきました。
勤行するのは法中(お坊さん)ですが、ひとつの法要行事は、門信徒の皆さまのお手伝い、ご参拝ご聴聞があって無事に終えることが出来ます。
心より感謝申し上げます。
2024年
4月
28日
日
昨日、築地本願寺でお勤めされた親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年慶讃法要に団体参拝をしてまいりました。当山からは38名のご参加を賜りました。
皆さまのご協力のもと、無事にお参り出来ましたこと感謝申し上げます。
前門さまのご法話、堂内に響いた読経、お念仏どれも感動的で有難いご縁でした。
2024年
4月
22日
月
桜に続き、ハナミズキやツツジ、藤と次々と花開く美しい季節になりました。
26〜29日において、築地本願寺にて親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年のご法要がお勤めされます。当山では27日に、お申し込みをいただいた皆さまと団体参拝をしてまいります。50年に一度しかないご法要に、ご門徒の皆さまとお参りできるご縁は大変ありがたいことです。
この度の慶讃法要でも、お勤めとご法話がございます。
当山においても永代経や報恩講など法要の際は、ご法話をいただいておりますが、裏方の私はなかなかゆっくり聴聞することが叶わず、27日は本当に楽しみにしております。
真宗においては「お聴聞」が大変大切なもののひとつとなります。
少し長くなりますが、仏教婦人会連盟冊子「めぐみ」より、お話を一部抜粋いたします。
「お聴聞」について・仏教婦人会総連盟講師 三宮亨信(めぐみ春号vol265)
阿弥陀さまのお心をきかせていただくことを「お聴聞」と申します。
〜略〜
親鸞聖人はこの「聴聞」というお言葉に「許されてきく・信じてきく」というご解釈をされています。つまり阿弥陀さまのお心を「この私のためと素直に聞き入れる」ということでしょう。
〜略〜
浄土真宗はお聴聞をして阿弥陀さまのお救いをいただくのではありません。阿弥陀さまの確かなお救いが、もうすでに私たち一人一人に届けられてあった、ということを聞かせていただくのであります。
蓮如上人のお示しに
「ただ仏法は聴聞にきはまる」「仏法には世間のひまをかきてきくべし」「仏法には明日と申すことあるまじく候ふ」というお言葉があります。
お聴聞はひまがあるから聞くのではなく、ひまを見つけて聞きなさい、ひまを作り出して聞きなさい。と、今聞くことの大切さを教えてくださっています。
「お聴聞」はいつでも聞けると思っている元気な時に、出来るだけ時間を作ってお寺にお参りをさせていただいて<許されて聞かせていただいている>というありがたさと喜びを味わいつつ、ご一緒にお育てにあずかってまいりたいと思います。
2024年
3月
31日
日
今日も日中は気温が上昇するようで、開花宣言の出たばかりの桜が一気に蕾を開きそうですね。
春季彼岸中には、能登半島地震義援金に多くのご協力を賜り、ありがとうございました。
合計108154円となりましたこと、ご報告させていただきます。
築地本願寺教務所を通じ、被災地支援とさせていただきます。
2024年
3月
10日
日
裏庭の河津桜が美しく咲く頃となりました。来週には春季彼岸となります。
既にご案内の通り、3月20日(水)午後2時より春季彼岸会法要をお勤め致します。お誘い合って是非お参りください。(ぼたもち+お茶付)
お彼岸中の参拝記念は、御堂さん(小冊子)と輪島のスプーンを用意しております。玄関にお立ち寄りください。
例年はお菓子を用意しておりましたが、本年は被災地支援のためスプーンといたしました。元旦の地震による火災が、50m手前まで迫ったうるしやさんから取り寄せました。
本堂の賽銭箱は引き続き義援金箱とさせていただきます。何卒よろしくお願い申し上げます。
季節の変わり目、くれぐれもご自愛くださいますよう念じ上げます。
2024年
2月
18日
日
ご存知の方もいらっしゃるかと存じますが、義兄は現在駐日スリランカ大使の任におります。(つまり姉はスリランカ大使夫人となります)
元旦の地震の直後から、ペレーラ大使は被災地を実際に訪れての支援を模索しておりました。
そして、過日(11〜14日)、在日スリランカ人コミュニティーの大勢のメンバーと共に、スリランカ関連団体や支援者の協力を得て現地に赴き支援活動を行いました。
七尾市、志賀町、金沢市を訪問し、各地域の自治体の指導と調整のもと、スリランカ料理やスープの炊き出しの他、お茶や救援物資を提供されました。一日の炊き出し量は400名分であったと聞いております。
浄土真宗のご縁で、被災された能登島の寺院、金沢別院においても支援活動が行われました。
ペレーラ大使の被災地に深く寄り添う気持ちと行動力は誠に尊いことと感じました。
当山での義捐金募金活動も引き続き、来月の春彼岸まで行ってまいります。寄せられた義援金は、浄土真宗本願寺派たすけあい運動募金「令和6年能登半島地震災害義援金」へ送金いたします。温かいご支援をよろしくお願い申し上げます。
2024年
1月
21日
日
昨日、初法座に引き続き役員新年会を催しました。曇天から時折雨に見舞われる中ご参拝をいただき有難うございました。
初法座では熊原先生から、金子みすゞさんや浅原才市さんの歌の紹介を交えた大変分かりやすいご法話をいただきました。
真宗の「食前のことば、食後のことば」にも触れられました。
「食前のことば」多くのいのちとみなさまのおかげにより、このご馳走をめぐまれました。
深くご恩を喜びありがたくいただきます。
「食後のことば」尊いおめぐみをおいしくいただき、ますますご恩報謝につとめます。
おかげでごちそうさまでした。
食前、食後のことばにこめられた、多くのいのちへの慚愧と感謝。
私たちの日々の食事が、多くの動植物のいのちの犠牲の上でしか成立しない、どうしても自己中心から離れられないことへの慚愧。
私たちは、毎日誰かの大変な思いと多くのいのちを犠牲にして用意していただいたものを頂いて生かされていることへの感謝。
今の自分が支えられている「おかげさま」を、身近な食前食後のことばを通して、今年も味わってゆきたいものです。南無阿弥陀仏
2024年
1月
02日
火
新年明けまして おめでとうございます
本年も何卒よろしくお願い致します
穏やかな年となるよう念じた2024元旦早々、石川県能登半島地方を震源とする地震が発生しました。被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
被災された方がたへの支援の一環として本堂賽銭を義捐金とさせていただき、募金活動を行ってまいります。
2023年
12月
24日
日
ここ数日、寒い日が続いています。
この冬も本堂掃除の際に、手がかじかむ頃となりました。
今日も法事をお勤めしておりますが、世の中的にはクリスマスイブで賑わっています。
その昔、「うちではクリスマスをしない」と言うと、友人に驚かれたものでした。日本においては、年中行事と化していますから、そのような反応になったのでしょう。
日本でクリスマスが受け入れられたのは、1900年(明治33年)。明治屋が銀座に進出し、その頃からクリスマス商戦が始まったとのことです。想像していたより昔から大切な家族や人と過ごす日がクリスマスと位置付けられていたのですね。
勿論、キリスト教を信仰されている方々にとっては、キリストの降誕をお祝いする重要な日の一つであることでしょう。
翻って考えてみると、お釈迦さまや親鸞聖人の御誕生をお祝いする法要があるものの、どうもクリスマスのような華やかさ、賑やかさ(或は経済効果)とは異なります。
仏教といえば、お葬式や法事など、なんとなく「死」をイメージされる方が、一般には多いかも知れません。しかし、本来仏教は生きている私たちのための教えです。仏さまの教えは決して「死ぬための準備」ではなく、この私が「生きていく糧」となるものです。
年があらたまり、1月20日には初法座(法話会)を予定しております。(講師:熊原博文師)
是非、仏さまの教えをご聴聞ください。
一年間、寺の護持発展にご理解とご協力を賜り、ありがとうございました。
今年も、おかげさまの一年でした。
どうぞ良いお年をお迎えください。
2023年
11月
20日
月
本年度、当山報恩講法要は、去る5日に無事にお勤めすることが出来ました。ご協力をいただいた役員、婦人会の皆さま、ご参拝をいただいた皆さまに篤く御礼を申し上げます。コロナ禍以来、取りやめていた多くのご法中をお招きしてのお勤めとお斎を再開し、久しぶりに賑やかな法要となりました。昨年帰国した姉、現在東京在住である娘と息子も揃い、我が家も三世代勢ぞろいでお参り出来たことは大きな喜びとなりました。
滅多にないことは、特別な感じが増すものです。
少し前のことになりすが、前住職(父)と二人連れで谷川岳に行ってきました。
このところ足の悪くなった父に、車内から紅葉が眺められれば良いだろうと向かったのですが、到着したら「ロープウェイに乗る」と言いだして・・・
ロープウェイが足の不自由な人にも優しいフラットな作りであったことも幸いし、手を添えながら、なんとか頂上まで行くことが出来ました。
頂上から二人で美しい景色を眺めながら、「あぁ、父とこの景色を眺めるのは、きっとこれが最後だな」と思ったことでした。
しかし、ふと、以前、築地本願寺の掲示板に「米寿もニ十歳も一度だけ 人生初事ばかりなり」とあったのを思い出しました。旅行や記念日、特別なことがあるなしに関わらず、この今、この瞬間は一度だけ。一度だけであるなら、実は毎日が、今が、いつだって最後で特別。その滅多にない特別をきちんと味わい、大切に、感謝の日々を送ってまいりたいと思いました。
2023年
10月
28日
土
朝から轟いた雷が漸く去り、空が明るくなってきました。
各地で様々なイベントが開かれるこの時期、安定した天候、気持ちよい秋晴れに恵まれると良いですね。
さて、来月25日に、私の姉であるペレラ雅子の講演会が桐生市文化会館で開催されます。
ご興味のある方がいらっしゃいましたら、聴講いただけると幸いに存じます。
2023年
10月
17日
火
長く暑い夏が過ぎ、ようやく秋めいてきました。
秋季彼岸中に募った義捐金は、お陰様で77525円となり、過日、築地本願寺に収めてまいりました。皆さまのご協力に篤く御礼申し上げます。
今日は清々しい秋晴れですが、朝晩と日中の気温の寒暖差がありますし、インフルエンザが早い流行となっておりますので、お気を付けてお過ごしください。
既にご案内を発送させていただきました通り、来月5日は報恩講法要をお勤めいたします。
コロナ禍中は取りやめていたお斎(昼食)が今年はございます。
「また会えましたね」とお話するのは楽しいものです。
お斎の時間が、ご門徒さん同士の和やかな歓談の時になりますと幸いです。
是非、お誘い合ってお参りください。
「また会える」について、伝道資料センターのリーフレットにこんなことが書かれておりました。
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「また会える」
この言葉にどれほど多くの方が救われてきたことでしょうか。
会者定離。出会った者は定めて離れていかなければなりません。
しかし、それが永遠の別れで終わらずにまた会える世界がある。
この浄土の教えに多くの方が手を合わされました。
このことは単に未来での再会を説いたものではありません。
浄土を思い手を合わせるところに、既に故人との再会は果たされています。
むしろ私が手を合わせることも、口に「南無阿弥陀仏」と称えることも浄土に生まれられた故人の導きによるものです。
先立たれたいのちは、決して遠い世界で待っておられるのではなく、今ここにご一緒くださっているのです。
2023年
9月
20日
水
暑さ寒さも彼岸まで。
気象庁によると、桐生市の今年の猛暑日は46日。(9月20日現在)
1994年に大分県日田市が記録した45日を上回り、国内の観測史上で最多となったそうです。
お彼岸を迎え、厳しい残暑が落ち着いてくれると良いですね。
9月23日午後2時より、秋季彼岸会法要をお勤めいたします。お誘い合ってご参拝ご聴聞ください。また彼岸中のお賽銭箱は、ハワイ・マウイ島大規模火災災害義援金箱とさせていただきました。
ご協力いただければ有難く存じます。
【仏教マメ知識 ろうそくの火はなぜ点じるの?】
仏教でろうそくの火は、仏さまの智慧と慈悲のお心をあらわします。ろうそくの火には二つの面があります。一つは光です。心の奥底までも知り尽くし、濁った迷いの闇を隈なく照らして真実に向かわしめるはたらき(智慧の光明)です。もう一面は、熱です。熱が氷を解かすように、大いなる慈悲の温もりが私の固く閉ざされた心を和らげてくださいます。
2023年
8月
14日
月
今年もお盆を迎え、入りの昨日は早朝よりお参りをいただきました。酷暑に加え、この先は台風の影響もあるようです。。どうぞお気をつけくださいませ。
さて、「季刊せいてん」123号の内容を平易な文章に改編したお盆のお話が本山HPに載っておりました。今月は、それをご紹介させていただきます。
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お盆の由来と浄土真宗のお盆
お盆と言えば、八月十五日、また一部地域では七月十五日を節目に行われています。まず、このお盆の由来からうかがってみましょう。
お盆の原点である経典「仏説盂蘭盆経」には「七月十五日」という日付が示されています。これは仏教教団で古くから行われてきた雨安居の最終日にあたり、「盂蘭盆経」では、この時に修行者の集団だが食物等を供養すれば、その善い行いにより、生存している父母から亡くなった先祖までが大きな福を得ることができることが説かれています。もともと旧暦であるこの七月十五日という日付をそのまま新暦にあてまているのが七月のお盆で、改暦を受けて月遅れにしているのが八月のお盆ということになります。
「盂蘭盆経」には目連尊者の母が六道の中の餓鬼の世界に堕ちていたことが説かれています。そして現在、浄土真宗以外の多くの宗派では、お盆に施餓鬼会を勤めています。施餓鬼会は、餓鬼の世界の飢えと渇きに苦しんでいる者たちに食物を施す法要です。「盂蘭盆経」の内容からすれば行って当然だろうと思われるかもしれませんが、実は最初からお盆に施餓鬼会が勤められていたわけではりません。元はそれぞれ別の法会であったのが、江戸時代頃に一緒になったといわれています。かなり最近ですね。
一般的なお盆のイメージは「先祖の霊が帰ってくる」というものでしょうか。ところが「盂蘭盆経」には亡き人の幸福のために善いことを行うという追善供養のことは説かれていても、「霊が帰ってくる」というような記述はどこにもありません。実はこの「霊が帰ってくる」という考え方は、「盂蘭盆経」や、その他の仏教の教えに由来するものではなく、日本の民俗信仰に由来するものだといわれています。
最初に述べたように「盂蘭盆経」には、亡き人の幸福のために善いことを行う追善供養が説かれています。これが「盂蘭盆経」の主題であり、現在の一般的なお盆でもやはりそれが中心的な目的となっています。しかし、このようなお盆の考えは、浄土真宗の教えとは合いません。
上に見たように、「盂蘭盆経」以来、多様な要素が重なり合い、混じり合いできあがってきたのが、今日のお盆でした。なにかひとつの「普通のお盆」があるというわけではなかったのです。であるならば、浄土真宗としてお盆を独自に意味付け味わうことも、決して無理矢理ではないはずです。
個人は実は期間限定ではなく、いつもお浄土から還ってきてくださっています。その方々に誘われ、仏前で手を合わせ、日々の生活に追われてご無沙汰しておりました、期間限定になっていたのはむしろ私のほうでしたねと、懐かしい面影を思い出しつつお念仏申す。あるいは目連尊者の故事を聞き、餓鬼にも地獄にもまでも届いて迷いの闇をまっすぐに破ってくださる、阿弥陀さまのお救いをよろこびつつお念仏申す。
もとは浄土真宗の教えと合わないような考え方であっても、お浄土を思い、阿弥陀さまの教えを通して受けとめることによって、お浄土の懐かしいか方をしのびつつ阿弥陀さまのお救いを聞きよろこぶ大切なご縁となっていきます。これが、浄土真宗のお盆の要でありましょう。
2023年
7月
11日
火
まずは、九州北部、山陰地方の大雨で被災された皆さまに心よりお見舞いを申し上げます。
こちら関東地方では連日の猛暑が続いております。熱中症にお気を付けになり、くれぐれもご自愛ください。
住職が丹精する蓮が開花しました。玄関に近い鉢には、今年は白蓮を見ることが出来ます。午後になると閉じてしまうので、朝、写真に収めました。
お釈迦ささまは「観無量寿経」の終わりに「もし念仏するものがあれば、それは人間の中でも分陀利華(ふんだりけ)である」とおっしゃいました。分陀利華とは白蓮華(びゃくれんげ)のことで、念仏者を「蓮華」といわれたのでした。不条理な出来事や悲しい事件など混沌とした泥沼のような世の中で、煩悩を沢山抱えながら生活しているのが私たちです。お念仏をいただき申す毎日を重ねてゆきたいことです。
2023年
6月
14日
水
梅雨入りし、はっきりしないお天気が続く中、境内には沙羅双樹が咲いております。
沙羅双樹は、仏教の三大聖樹の一つです。
お釈迦さまが入滅されたときに、臥床の四辺にあった4双8本の沙羅の樹が花を咲かせたかと思えば、すぐに枯れて白く変化した様子が、まるで鶴の群れのようであったといわています。
朝に咲いて夕方に落ちる一日花の沙羅の花。
その儚さゆえに平家物語では「盛者必衰の理をあらわす」と記されています。
生かされていることに感謝し、今日一日を大切に過ごしてまいりたいことです。
2023年
5月
28日
日
昨日、お陰さまにて無事永代経法要をお勤めさせていただきました。ご参拝いただきました皆さま、また幕張りや仏旗掲揚などのお手伝いをいただきました役員の皆さまに御礼申し上げます。
コロナが5類になったことを受け、昨年度の永代経法要より出謹していただくご住職を増やし、お勤めの声が大きく響いた法要となりました。ご法話は、群馬組副組長の嵯峨宣正先生、松岡満優先生、松岡晃徳先生から、それぞれにお味い深いお話をいただきました。
昨日は少々暑く感じるほどの良い天候に恵まれましたが、この先は梅雨の先駆けとなるようです。くれぐれもご自愛くださいますよう念じ上げます。
2023年
4月
30日
日
4月最終日となりました。
今年は急ぎ足の春で、桜や藤、ツツジの
花々が例年になく早咲きとなりました。
昨日からのゴールデンウィークは、久しぶりに各地で賑わいのあるものとなるようです。世の中がコロナ以前に戻りつつあるのを感じます。
4月9日のことになりますが、当山婦人会も3年ぶりに日帰り旅行を開催致しました。
初めて築地本願寺の花まつりをお参りさせていただきました。。今年の築地本願寺花まつりは、スリランカ大使館、インド大使館の後援を受けて実施され、新型コロナの行動制限緩和後の初開催とあって15000人が集う賑やかなものでした。姉の夫であるスリランカ駐日大使(E・ロドニー・M・ペレラ)は挨拶で次のように語りました。
「ブッダのメッセージは、アジアにヒューマニズムの波を広げ、何百年もの間、共通の文化と遺産で私たちを結びつけてきた。今日、新しい歴史の最初のページが、平和と繁栄の中で、人間の生命の尊厳を完全に享受するために、ともに開かれることを信じる。」
本日は、寺の役員総会が午後2時より開催されます。
総代さまをはじめ、役員の皆さまには、ご多用の折にご参集をいただき御礼申し上げます。
役員総会を経て5月には、門信徒の皆さま宛てに種々のご案内を発送させていただきます。
何卒よろしくお願い致します。
2023年
3月
27日
月
本日より今月末日まで、門の前が道路工事となります。
これに伴い、車両が境内に駐車できませんので、門外の駐車場をご使用ください。
ご迷惑をおかけいたしますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
2023年
3月
19日
日
昨日は、冷たい雨と寒の戻りの彼岸入りでした。
本日からは、また暖かい日が戻ってくるようです。椿や木蓮に続き、ぽつりぽつりとソメイヨシノも開き始め良い季節となりました。
墓参の際には、玄関にて小冊子と築地本願寺煎餅をお配りしておりまので、是非お立ち寄りください。
また、既にご案内させていただいておりますが、21日午後2時より春季彼岸会法要をお勤め致します。こちらもご参拝いただけると幸いに存じます。
浄土真宗の教えは、お聴聞に尽きると言われます。では、お聴聞とはいったい何でしょうか。
お聴聞とは、仏さまの話を聞こうということです。
南無阿弥陀仏というのはどういうことなのか
南無阿弥陀仏を口にし、聞くと、どうして救われるのか
救われるとはどういうことか
そうしたお念仏の話や仏さまの話を聞くことを聴聞と言います。
彼岸にいらっしゃる方々を偲ぶお彼岸が、仏さまのお働きを味わう機縁となりますよう、お待ち申し上げております。
2023年
2月
02日
木
ご門主は、1月16日、御正忌報恩講法要ご満座に続いて御影堂で「ご消息」を発布され、み教えの肝要が広く、また次の世代に伝わることを願われて、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)を示されました。
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本年三月には、「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」という記念すべきご勝縁をお迎えいたします。このたびの慶讃法要は、親鸞聖人の立教開宗のご恩に深く感謝し、同じお念仏の道を歩む者同士が、あらためて同信の喜びを分かち合うためのご法要です。また、これを機縁として、特に若い人やこれまで仏教や浄土真宗に親しみのなかった人など、一人でも多くの方々に浄土真宗とご縁を結んでいただきたいと思います。
伝道教団を標榜する私たちにとって、真実信心を正しく、わかりやすく伝えることが大切であることは申すまでもありませんが、そのためには時代状況や人々の意識に応じた伝道方法を工夫し、伝わるものにしていかなければなりません。このような願いをこめ、令和3年・2021年の立教開宗記念法要において、親鸞聖人の生き方に学び、次の世代の方々にご法義がわかりやすく伝わるよう、その肝要を「浄土真宗のみ教え」として示し、ともに唱和していただきたい旨を申し述べました。
浄土真宗では蓮如上人の時代から、自身のご法義の受けとめを表出するために「領解文」が用いられてきました。そこには「信心正因・称名報恩」などご法義の肝要が、当時の一般の人々にも理解できるよう簡潔に、また平易な言葉で記されており、領解出言の果たす役割は、今日でも決して小さくありません。
しかしながら、時代の推移とともに、「領解文」の理解における平易さという面が、徐々に希薄になってきたことも否めません。したがって、これから先、この「領解文」の精神をu6日、御正忌報恩講法要ご満座に続いて御影堂で「ご消息」を発布され、み教えの肝要が広く、また次の世代に伝わることを願われて、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)を示されました。
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本年三月には、「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」という記念すべきご勝縁をお迎えいたします。このたびの慶讃法要は、親鸞聖人の立教開宗のご恩に深く感謝し、同じお念仏の道を歩む者同士が、あらためて同信の喜びを分かち合うためのご法要です。また、これを機縁として、特に若い人やこれまで仏教や浄土真宗に親しみのなかった人など、一人でも多くの方々に浄土真宗とご縁を結んでいただきたいと思います。
伝道教団を標榜する私たちにとって、真実信心を正しく、わかりやすく伝えることが大切であることは申すまでもありませんが、そのためには時代状況や人々の意識に応じた伝道方法を工夫し、伝わるものにしていかなければなりません。このような願いをこめ、令和3年・2021年の立教開宗記念法要において、親鸞聖人の生き方に学び、次の世代の方々にご法義がわかりやすく伝わるよう、その肝要を「浄土真宗のみ教え」として示し、ともに唱和していただきたい旨を申し述べました。
浄土真宗では蓮如上人の時代から、自身のご法義の受けとめを表出するために「領解文」が用いられてきました。そこには「信心正因・称名報恩」などご法義の肝要が、当時の一般の人々にも理解できるよう簡潔に、また平易な言葉で記されており、領解出言の果たす役割は、今日でも決して小さくありません。
しかしながら、時代の推移とともに、「領解文」の理解における平易さという面が、徐々に希薄になってきたことも否めません。したがって、これから先、この「領解文」の精神を受け継ぎつつ、念仏者として領解すべきことを正しく、わかりやすい言葉で表現し、またこれを拝読、唱和することでご法義の肝要が正確に伝わるような、いわゆる現代版の「領解文」と言うべきものが必要になってきます。そこでこのたび「浄土真宗のみ教え」に師徳への感謝の念を加え、ここに新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)として示します。
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南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身をまかす このままで
救い取られる 自然の浄土
仏恩報謝の お念仏
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです
み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を離れます
生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず
穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも 悲しみも 分かち合い
日々に 精一杯 つとめます
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この新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)が僧俗を問わず多くの方々に、さまざまな機会で拝読、唱和いただき、み教えの肝要が広く、また次の世代に確実に伝わることを切に願っております。
令和5年(2023年) 1月16日
龍谷門主 釋 専如
2023年
1月
01日
日
新年明けまして おめでとうございます。
穏やかに年を越し、お陰様で3年ぶりの元旦会を賑やかにお勤め出来ました。
ご参拝いただき誠に有難うございました。
寒さ厳しき折、くれぐれもご自愛いただきますよう念じ上げます。
本年も何卒よろしくお願い致します。
本願寺新報1月号より、ご門主の年頭の辞をご紹介致します。
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新しい年のはじめにあたり、ご挨拶申し上げます。
まず、新型コロナウイルス感染症によりお亡くなりになられた国内外のすべての方々に、謹んで哀悼の意を表しますとともに、罹患されている皆さま、後遺症を患われている皆さまに心よりお見舞い申し上げます。また医師・看護師をはじめとする医療従事の方々、ライフラインの維持に努められている方々に深く敬意と感謝を表します。
そして、すでに1年近くに及ぶロシア連邦のウクライナ侵攻に対して、私たち念仏者は『大無量寿経』に説かれる「兵戈無用(ひょうがむよう)」、親鸞聖人がお示しくださった「世の中安穏なれ」のお言葉をあらためて心に深く刻み、武力による他国の主権の侵害を強く非難するとともに、一刻も早くウクライナに平和が訪れることを願ってやみません。
さて、本年は親鸞聖人がご誕生されて850年、来年は、阿弥陀さまのご本願の救いである他力念仏のみ教えを、主著である『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)にまとめられてから800年という記念すべき年になります。それにあたって本願寺では、本年3月29日から5月21日までの5期30日間にわたり、「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」をおつとめいたします。また、築地本願寺と各地の教区・別院・教堂のおいても、2024年末までに慶讃法要をおつとめすることになっています。
浄土真宗のみ教えが今日まで、800年の永きにわたり連綿と受け継がれてきましたのも、多くの先人の方々がお念仏申しつつ、凡愚のまま摂め取って捨てない阿弥陀さまのお慈悲、ご本願のお心を確かな依りどころとして生き抜いてこられたからに他なりません。このたびのご法要は新型コロナウイルス感染症の感染対策を講じ、ご参拝の皆さまのご理解、ご協力をいただきながらのご修行
となりますが、あらためて親鸞聖人のご誕生を祝し、私たちが浄土真宗のみ教えに出遇えたことを慶び、そのご恩に感謝するご勝縁にしたいと思います。
世界的に見ても、いまだに新型コロナウイルス感染症の収束が見通せない状況が続いていますが、これからも阿弥陀さまのおはらきを聞き、それを依りどころとして日々を過ごしてまいりましょう。そして、み教えを広く人々に伝え、人と喜びや悲しみを分かち合うなど、少しでも阿弥陀さまのお心にかなう生き方を目指し、すべてのいのちあるものが、お互いに心通い合わせて生きていけるような社会の実現に向けて。精いっぱい努力させていただきましょう。
2022年
12月
28日
水
今年の暮れもいよいよ押し詰まりました。
本年も、ご門徒の皆さまには、寺の護持発展にご理解とご協力を賜り、誠に有難うございました。
くれぐれもご自愛くださり、おすこやかな年をお迎えください。
来年は、いよいよ「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要=親鸞聖人がこの世にお生まれになり、浄土真宗のみ教えをお開きになったことを慶び、お讃えする法要」をお迎えする年となります。「ご縁を慶び お念仏とともに」ある一年となりますよう念じ上げ上げます。
元旦には朝参り(3年ぶりの通常の元旦会となります)を午前6時より勤行いたします。
お寒い中ではございますが、ご参拝いただければ幸いに存じます。
仏教婦人会総連盟冊子の「めぐみ(秋号)」に『浄土真宗は「願いを聞く」宗教です』と題し、次のようなお話がありました。
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先日、あるご門徒さんから次のようなご質問をいただきました。
私は、毎朝お仏壇にお参りをして阿弥陀さまに朝のご挨拶をします。そして、家族の無事や健康を願います。そのことをお友達に話をしました。そうしたらお友達から、
「阿弥陀さまにお願い事をしてはダメよ。浄土真宗は阿弥陀さまの願いを聞いていく宗教なんだから」と、言われました。今まで私は、阿弥陀さまも他の仏さまと同じように、私たちの願いを聞いてくださるものだと思っていました。阿弥陀さまにお願いをしてはダメなのですか?浄土真宗は阿弥陀さまの願いを聞いていく宗教って、どういう意味ですか?という内容でした。
この「阿弥陀さまにお願いをしてはいけないのでしょうか?」というご質問は、゛私にとって、阿弥陀さまはどのような仏(如来)さまなのか゛という問題であるように思います。私は、阿弥陀さまは「私の欲望をかなえてくださる仏(如来)さま」とは思っていません。だからといって、「阿弥陀さまにお願い事をするとはけしからん」と私を見捨てる仏(如来)さまでもありません。
阿弥陀さまは、私を深くご心配くださり、私に本当の安らぎをあたえようと願い、はたらき続けてくださっている仏(如来)さまなのです。この願いのはたらきは、私のその時その時の心持ちで左右されるものではありません。阿弥陀さまのおはたらきは、私の思いを完全に超え、そのままの私をいつもあたたかく包んでいてくださるのです。ですから、阿弥陀さまには、私のどんな思いも聞いていただくことができる、何でもご相談できる仏(如来)さまなのです。阿弥陀さまは私の思いのすべてをしっかり受け止めてくださる仏(如来)さまでした。ですから、阿弥陀さまに私の欲望をかなえてもらうために、祈ったり頼んだりするのではありませんでした。私の欲望をかなえてくださる仏(如来)さまであると考えてはならない、ということであろうと思います。
私たちがそれぞれの人生を生きていくなかで「私が本当に願わなければならないのは何なのか」を教えてくださるのが親鸞聖人のお念仏のみ教えでありました。
浄土真宗は「阿弥陀さまの願いを素直に聞き受け、その願いに生かされていく」宗教でした。
(仏教婦人会総連盟講師 三宮亨信 師)
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2022年
11月
17日
木
今月5日、当山報恩講法要をお勤めしました。
今年度もコロナ禍を考慮し、総代さま、役員と婦人会の皆さまのご参拝のみの縮小した形式のお勤めでした。お参りいただいた皆さまに感謝申し上げるとともに、ご案内できなかったご門徒の皆さまには大変心苦しく、深謝致します。
ここに来て、新型コロナの第8波に入ったと報じられるようになりました。
またかと思わずにはいられませんが、なによりお身体をご自愛くださり、穏やかでお健やかな日々をお過ごしください。
以前、ご紹介した本願寺インスタ倶楽部の記事を本日も引用させていただきます。
《 いやなことばかり 続かない 》
今回の言葉は、新型コロナの再拡大が繰り返される中で、たくさんの「いいね(共感)」がありました。多くの方が、言葉にできないほどつらい思いを抱えておられることが想像されます。(中略)
仏教には「諸行無常」という基本となる真理があります。あらゆるものは常に”変化し”、永遠に変わらないものは何一つないという意味です。すべてのものごとには”終わりがある”といった悲観的なイメージがありますが、あらゆるものは常に”変化し”続けるからこそ「つらいこと」「悪いこと」も、変化する時が訪れるのです。
切羽詰まった時には、目の前のことに対処するので精いっぱいですが、いつまでも続きません。明けない夜はないのです。 :本願寺派総合研究所 研究員 隅倉浩信
群馬県桐生市にある浄土真宗本願寺派のお寺です。
毎月1日朝6時より朝詣りをお勤めしております。
また毎月第2月曜日は、午後1時30分より仏教讃歌のコーラス(現在は婦人部のみ)活動をしております。
宗門のみ教え、作法、お墓のご相談などお気軽にお問い合わせください。
お墓については、平成25年合祀墓「安楽廟」も完成しております。