お盆前の11日、本堂内陣仏具のおみがきをしました。綺麗になった仏具で墓参のご門徒さんをお迎え出来て、誠に有難いことです。
ご協力をいただきました役員の皆さまに感謝申し上げます。
今日は終戦記念日です。日本では79年の間、戦争はありませんが、今も世界各地で争いが絶えません。それは哀しい現実であり、決して他人事でもありません。
歎異抄13章にある親鸞聖人と唯円房とのお話を思い出しました。現代訳は次の通りです。
「(略)また、あるとき聖人が「唯円房よ、あなたは私の言うことを信じ受け入れるか」とおおせられたので、「もちろんです」と申しあげた。そうしたところ、「それでは、私が言うことに背かないか」と、さらに重ねて念を押されたので、誓って背きませんと申しあげた。すると聖人は、「それではまず、ひとを千人殺してみなさい。そうすれば、浄土への往生は決定するであろう」とおおせなった。それに対して「聖人のおおせではありますけれど、たとえ、一人たりとも私のようなものには殺せそうも思えません」と答えたところ、聖人は「それではどうして私が言うことに背かないと言ったのですか」とおおせられて「これによって、わかるでしょう。すべてのことが、自分の思うままになるのであれば、浄土往生のために、ひとを千人殺せと言われたならば、ただちにそうできるはずである。しかし、一人たりとも殺してしまうような宿業の深い拝啓がないから、殺せないのである。私のこころが優しく善良であるから、殺さないのではない。また殺すまいと思っていても、百人はおろか千人殺してしまうこともあるのだ」とおおせになった。」
聖人のお言葉に「さるべ業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」に通じるお話です。
この点については、以下に、真宗大谷派三十別院のHPより、以下に引用すます。
自分の頭で「こうしよう」「ああしよう」とどれだけ計画したところで、何かの原因と条件が揃った時には、自分の意思を超えて、人は何をするか分からない。
ある日、謂われもなくなく殺される日があるかも知れず、ある日、人は謂われもなく人を殺す日が来るかも知れない。
「自分だけはそんな目に遭うはずがない」だとか「自分だけはそんなことをするはずがない」と考えることは、「自分」が「自分」と約束しているだけの、根拠のないことなのでしょう。
私たちは、たまたま生まれ育った境遇や現在の生活や人間関係が犯罪を促すようなものではないので、今は重罪を犯すことが思いもよらないだけなのです。もし、考えもおよばないような情況に追いつめられたり、犯罪を引き起こすような条件が周りにそろってしまったならば、自分も何をしでかすか分からない。このような罪業性をもつ我が身のあり方は、正しく「いずれの行もおよびがたき身」でしょう。そして、このような私だからこそ、救わずにおれないという弥陀の大悲に、頭が下がるということがあるように思います。