お盆

今年もお盆を迎え、入りの昨日は早朝よりお参りをいただきました。酷暑に加え、この先は台風の影響もあるようです。。どうぞお気をつけくださいませ。

さて、「季刊せいてん」123号の内容を平易な文章に改編したお盆のお話が本山HPに載っておりました。今月は、それをご紹介させていただきます。

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お盆の由来と浄土真宗のお盆

お盆と言えば、八月十五日、また一部地域では七月十五日を節目に行われています。まず、このお盆の由来からうかがってみましょう。

お盆の原点である経典「仏説盂蘭盆経」には「七月十五日」という日付が示されています。これは仏教教団で古くから行われてきた雨安居の最終日にあたり、「盂蘭盆経」では、この時に修行者の集団だが食物等を供養すれば、その善い行いにより、生存している父母から亡くなった先祖までが大きな福を得ることができることが説かれています。もともと旧暦であるこの七月十五日という日付をそのまま新暦にあてまているのが七月のお盆で、改暦を受けて月遅れにしているのが八月のお盆ということになります。

「盂蘭盆経」には目連尊者の母が六道の中の餓鬼の世界に堕ちていたことが説かれています。そして現在、浄土真宗以外の多くの宗派では、お盆に施餓鬼会を勤めています。施餓鬼会は、餓鬼の世界の飢えと渇きに苦しんでいる者たちに食物を施す法要です。「盂蘭盆経」の内容からすれば行って当然だろうと思われるかもしれませんが、実は最初からお盆に施餓鬼会が勤められていたわけではりません。元はそれぞれ別の法会であったのが、江戸時代頃に一緒になったといわれています。かなり最近ですね。

一般的なお盆のイメージは「先祖の霊が帰ってくる」というものでしょうか。ところが「盂蘭盆経」には亡き人の幸福のために善いことを行うという追善供養のことは説かれていても、「霊が帰ってくる」というような記述はどこにもありません。実はこの「霊が帰ってくる」という考え方は、「盂蘭盆経」や、その他の仏教の教えに由来するものではなく、日本の民俗信仰に由来するものだといわれています。

最初に述べたように「盂蘭盆経」には、亡き人の幸福のために善いことを行う追善供養が説かれています。これが「盂蘭盆経」の主題であり、現在の一般的なお盆でもやはりそれが中心的な目的となっています。しかし、このようなお盆の考えは、浄土真宗の教えとは合いません。

上に見たように、「盂蘭盆経」以来、多様な要素が重なり合い、混じり合いできあがってきたのが、今日のお盆でした。なにかひとつの「普通のお盆」があるというわけではなかったのです。であるならば、浄土真宗としてお盆を独自に意味付け味わうことも、決して無理矢理ではないはずです。

 

個人は実は期間限定ではなく、いつもお浄土から還ってきてくださっています。その方々に誘われ、仏前で手を合わせ、日々の生活に追われてご無沙汰しておりました、期間限定になっていたのはむしろ私のほうでしたねと、懐かしい面影を思い出しつつお念仏申す。あるいは目連尊者の故事を聞き、餓鬼にも地獄にもまでも届いて迷いの闇をまっすぐに破ってくださる、阿弥陀さまのお救いをよろこびつつお念仏申す。

もとは浄土真宗の教えと合わないような考え方であっても、お浄土を思い、阿弥陀さまの教えを通して受けとめることによって、お浄土の懐かしいか方をしのびつつ阿弥陀さまのお救いを聞きよろこぶ大切なご縁となっていきます。これが、浄土真宗のお盆の要でありましょう。