限りない欲

昔、隣接する大国と小国があった。大国は、土地が余っており、小国は人口密度が高く狭い土地を取り合っていた。

大国の王は小国の農民たちに触れを出した。

「我が国へくるものには、土地をほしいだけ与えよう、朝、太陽が昇ると同時に出発し、角々に標木を打ち、太陽の沈むまでに出発点にもどって来なさい。標木で囲まれた土地を与えよう。但し、一刻でも遅れれば、一寸の土地も与えぬから注意せよ」

さっそく一人の男が申しでて、翌朝、太陽とともに出発した。最初は歩いていたが次第に足が速まり、やがて小走りになり、本格的に走り始めた。歩くよりも走れば、それだけ自分の土地が広くなるという欲からである。当然、標木を打って曲がらねばならぬ所にきていても、欲は、もっともっとと引きずった。

見上げると太陽がもう正午を指している。慌てて標木を打って左へ曲がって走った。昼食も走りながらすませる。午後は極度に疲れたが、服も靴も脱ぎ捨てて走った。足は傷つき、血は流れ、心臓は今にも破裂しそうだ。しかし今倒れたら一切が水泡になる。彼は出発点の丘をめざして必死に走る。そのかいあって、太陽の沈み直前に帰着したが、同時に彼はぶっ倒れ、後はピクリともしなかった。

王様は、家来に命じて半畳ほどの穴を掘らせ、農夫を埋めさせて、つぶやいた。「この農夫は、あんな広大な土地はいらなかったのだ。半畳の土地でよかったのに」と。

 

これは、私たちにある限りない欲を現した説話です。

 

仏さまのような智慧と慈悲をそなえた眼は私たちにはありませんが、心配しなくていいんだよ、我執に充ちた私と気づいたとき、苦海の闇で惑う私たちを、阿弥陀さまの願いの船がかならず私を乗せて浄土にみちびいてくださると説かれたのが親鸞聖人です。

自分自身を深く見つめ、自分の本性に向き合あわれた親鸞聖人の有りようは、到底真似が出来ませんが、我欲について時に見直していければと思います。